升山 義弘(ますやま よしひろ)
5期(1979年入学)
学生時代の学群 第三学群基礎工学類
現役時代のポジション G、C、LB(椎間板ヘルニアのため、選手は3年まで。4年はコーチ)、体育会執行部(第6代委員長)
出身高校 都立九段高等高校
居住地 東京 武蔵小金井市
Excalibursでの思い出
大した選手ではなかったので、試合のエピソードは他の方々にお譲りして、
当時の雰囲気なりをご紹介することにします。
正に創設期でした。
練習は多目的グランドで、ナイター照明すらなく左右にはスパイク立ち入り禁止の陸上ホッケーとハンドボール部。転がり入ったボールを取りに行くことすら恐縮していた始末。ラクビー場の照明や車のヘッドライトで自主練したりもしました。よく走っていた記憶がありますが、暗くなったら走るしかなかったですね(笑)。
練習メニュも時間配分(当時は時間が来たら“次”、ではなく、出来るまで“アゲイン!”)も、ストレッチ、ウエイトトイレーニングなどのトレーニング、体調管理、怪我のケアなどすべて自分達で勉強研究、試行錯誤してやっていました。医学で創部し体専も居て、総合大学の力を結集していたと思います。
スポーツドリンクもテーピングテープも日本に入ってそれ程の年数は経っていません。体育会でテーピングメーカに依頼して各部のマネージャを集めてテーピング講習会を開催しましたが、日頃一番活用していたアメフト所属だったことも大きく影響していました。
そして、日本で最初にニーブレスを輸入・装着したのも同期 松山君(雑誌にフットボールの鬼と書かれた)です。
フットボールフリークスが創刊したのも同じころで、創刊号表紙は糸瀬君の力作でした。
私は選手を断念後、何か別の形でもクラブに貢献したいと、スレッダーを自主設計(図書館と設計室に随分通いました)し、基礎工でお世話になっていた日立製作所土浦工場の関連部署に製作を学割でお願いしました。分解組み立て式にして合宿にも持っていけるようにした画期的なものですが、スプリング可動ストロークが短く、選手の皆さんには大変不評でした。改めて御免なさい。
「Excaliburs」も2年生の頃にいくつもの候補の中から選ばれたのだったと思います。エンブレムもデザインしスタジャンも作り、なんでも初めてでした。当時は、未だ大学の建設(ダンプカーが走り回り、道は未舗装)が続いているような状況で大学全体が開拓者スピリッツ、創設期の試行錯誤、チャレンジ精神で満ちていたような気がします。
アメリカンフットボールとしては稚拙だったかもしれませんが、これなら相手に引けを足らないと自分達自身が信じられるプレーを、愚直に繰り返し練習し身体と“心”に覚え込ませたものでした。
当時、「QBキープ」が天下の宝刀で、両ガードのプルアウトが大切で来る日も来る日もプルアウトの練習(引き手が肝心、だったかな)をしたものです。どんなピンチでもこのコールを聞くと、出さなければならない、いや絶対出る!と身震いしてプルアウトしたものです。
昔を懐かしみながら思い出すままに書き綴ってしまいましたが、当時を総括すれば「愚直」「繰り返し」「創意工夫」、それら全て「Fight to Win for the Team!」に結実していました。
4年間の実体験をもう30年間近く自分の中で熟成させたOBとして、少しお披露目しました。
現役の皆さんは、是非「今」を突き詰めてください。
OBの皆さん、現役達の活躍に具体的に役に立つことに少しでも着手しましょう。そして応援を通じて大いに交流を深めていきましょう。
近況
長年勤めた日立製作所を退職し、4月から日立物流(江東区 東陽町)にて経営戦略に従事しています。
(2012年6月)