松山 耕二(まつやま こうじ)
5期(1979年入学)
学生時代の学群 第一学群人文学類
現役時代のポジション DL(DE、DT、NG)#63
出身高校 都立冨士高校
居住地 千葉県船橋市
Excalibursでの思い出
まだ「Excaliburs」というチーム名も付いていない『黎明期』の筑波大学アメリカンフットボール部。高校からのアメフト経験者は自分が最初で、福永監督以外は99%フットボール素人の集まり。しかも未だ卒業生がいなかったので勿論コーチもいない中、毎日が試行錯誤の日々。
練習場は「多目的グランド」で照明設備もなく、練習中に暗くなると先輩の車のヘッドライトでグランドを照らしてフォーメーションを合わせ、後はひたすらダッシュとブロック。「100ydフォーメーション」「100ydダッシュしてからダミータックル」をはじめ、兎に角バカみたいに走る!あまりに走り過ぎて下級生が『俺たちは牛や馬じゃない!』とストライキを起こす事も。
今考えるとおよそ科学的とは言えない『スポ根漫画』のような練習だったかも知れないが、自分達が上級生になる頃には2部校相手ならば走り負け、当たり負けすることは全く無くなっていた。(それでも当時ダントツ日本一だった日大との春のオープン戦は「0対168」の記録的な敗北を喫しましたが…)
一方で、練習を離れると、部員達の投稿による手書きガリ版刷りの部誌『フットボール・フリークス』を発行したり、現シーガルズ代表の並河氏(6期)監督で当時流行ったジョン・トラボルタ主演映画『グリース』のパロディ8ミリ映画『クリーツ』(主演は先年鬼籍に入られた4期・佐藤氏)を製作したり、結構文化的なこともやっていた。しかし、あの映画いったい誰に見せるつもりで撮ったのだろうか・・・未だに不明である。
もう一つの思い出は、4年の夏に「タッチダウン」誌に筑波大学アメフット部のチーム紹介記事が載ったこと。先日の後援会総会で聞いたら、当時の部員の多くが今でも大事に保管していた。
黎明期の混沌とした時期だったので、冗談みたいな逸話には事欠かないが、それは別の機会に取っておくとして、みんな正直練習は嫌いだったが、筑波大学アメリカンフットボール部が大好きだったのだと思う。
福永監督、青木先生、宮丸先生、土肥先生はじめ多くの方々が「無償の愛」を注いで育てて下さった「Excaliburs」。これからも泥臭くても力負けはせず、ひた向きに貪欲に勝利を目指すチームで有り続けて欲しいと願う今日この頃である。
当時の体型
オフェンス:フランカーT、I、たまにショットガン
ディフェンス:5-3(今は高校生でもやらないかも・・・)
印象的なチームメイト
★同期編
同期は7名、そのうち卒業までプレーヤーでいられたのは僅か3名で、しかも全員身体の何処かにバクダンを抱えた状態だった。幸いなことに一期下に個性が強く人数も多い代がいたことで、秋季リーグ最終戦「雨の明星戦」で悔しい思いはしたが2部で2位まで持ち上げ、翌シーズンで創部以来初の1部昇格に繋げることができたのは今でも誇りにしている。
同期では、試合中に味方選手のケツに蹴りを入れる獰猛な名古屋人主将・大池、一度出ると同じプレーコールを最低3回連続は繰り返すえげつない関西人QB・糸瀬をはじめ、筑波初のスレッダーマシンを自ら設計製作するも重すぎて使えなかった:3番サード/永六輔/体育会財務局長・升山、「知らんに!」が口癖のほのぼの系主務・前沢、クールな熱血サポーター・浦野、サイドラインの声が一番デカい・廣川の5期7人は後援会費納金率100%を更新中!
★先輩・後輩編
笠松氏(2期):言わずと知れた初代後援会長。現役時代からニックネームは「会長さん」。秋の帝京大戦でミスタックルをしてTDを許した相手チームの選手に「いあや~残念だったねえ。君の責任だよ!」とにこやかに止めを刺した傑物。
増田氏(3期):体育専門学群から初めてフットボール部に入部した「火の玉ボーイ」・闘将キャプテン。「しょーもないことすな―っ!」とよく怒鳴られました。福永監督とこの期の先輩方の影響で筑波大アメフト部内の公用語はしばらくの間「関西弁」だった。
居波氏(3期):小柄で細身ながら「ドカベン」の殿馬のような天才肌のプレーで相手を刺止めるOLB。福永監督が唯一「居波君」と呼び捨てにしなかった稀有な存在。
成塚氏(4期)、伊福氏(4期):下級生の自分達DLにとっては安心できるLB2人。二人とも軽量ながらOGと掛け持ちのフル出場。兎に角「タフ」な方々でした。
佐藤氏(4期):黎明期の名QB。甲高いコールと裏腹に冷静沈着なプレースタイル。ロールアウトパスとQBキープは良く出ました。ディフェンスのFSやキッキングのリターナーもやっていたのは今では考えられないことですね。
前道氏(4期):身長190㎝超で当時の関東学連所属選手一の長身TE。練習中雷が鳴ると他の選手が避雷針代わりにしていました。
また後輩諸氏では「身体も態度も偉そうな」菅野・秦の両DE、「90%インチャージ指示」OLB・北原、「脱力系北関東人」C・横田、「無口な運び屋」RB・所、「ヒラメ」OG・斎藤、「則巻千兵衛」DT・杉山、「ガメラ」MLB・末田、「ミョホーッ!」DT・石塚、「パン好き」WR・小林、「楽勝っ!」OG・佐伯(意味が分からなくなってきたのでこの辺でやめます)等々、ALL・JAPANとは縁のない黎明期の「ノーネーム」な選手の集まりでしたが、『自ら筑波アメフトの歴史を創る』という意識が強かったように思います。
思い出の試合
●1980年春季オープン戦・対明治大学 ●14対20
福永監督のご縁で新加盟リーグ(今で言ったら「エリアリーグ」並みの扱い。)所属の筑波は毎年春に名将・野崎監督率いる明治大学とオープン戦を組ませて頂いていた。
この試合はライン戦で相手を上回り、前半14対0で筑波がリード。第4Qで力尽き逆転負けを喫したが、一部上位校の明治相手に大健闘。創部4年足らずの我が部が、その年秋の2部昇格、3年後の1部昇格に向けて弾みをつけた一戦だった。
●1981年春季オープン戦・東京大学 ○13対7
初めて東大に勝利した試合。創部2年目に新加盟リーグ加入を決める監督会議に出席し、「筑波大が加盟すると関東リーグが弱くなる」と日体大と千葉商大に反対されて悔しい思いをされた青木彰先生(当時部長)の母校に勝ち、『筑波大アメフトもこれでやっと一人前なったような気がする。』と喜んでいただけた。
※青木先生は戦後間もない東京大学ラクビー部出身で、東京六大学では「赤門の鬼」と評されていた方。「アメフトのルールはわからんが、要はファイティング・スピリットや!」とよく仰っていた。
●1982年秋季リーグ戦・明治学院大学 ○40対0
4年時の秋季リーグ初戦。ディフェンスは『ノー・フレッシュ』というある意味無茶な目標を立てていたが、結局許したフレッシュは1、2回だけだったように記憶している。
この試合以降、鉄壁のディフェンスはリーグ戦を通じて破壊力を発揮。全6試合(明学、国学院、創価、千葉商、青学、明星)のディフェンス総失点は21点。1試合平均喪失ヤードは100ydを切っていた。
●1982年秋季リーグ戦・明星大学 ●0対6
全勝同士で迎えたリーグ最終戦。激しい雨が降る明星大学Gr.でサイドラインもわからない悪コンディションの中、ディフェンスはほぼ終始敵陣に相手を抑え込んでいたが、味方オフェンスもあと一歩でゴールラインを割れない。そして第4Qにパント・ブロック・リターンタッチダウンで痛恨の失点。
悲願のリーグ優勝、1部昇格の夢が消えた。
その日以来『惜敗』という日本語が大嫌いになった。どんなに善戦しても最後の勝利なくして栄光はない。昨年の入替戦で涙を飲んだ現役の皆さんには、日々の練習や試合でふと気が緩みそうになった時、無念の思いで卒業していった4年生の事を思い出し、より「完璧に勝つ」ためには更にもう一つ何ができるかを常に考えて欲しい。
近況
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(2012年6月)